マイク福田の       Vol.5
アンへレス物語

さて、念願の家も購入し、子供も生まれ、数年のフイリッピン滞在で色も黒く逞しくなり、今や何処から見ても往年の原宿ボーイどころか、そんな面影もない立派な国籍不明謎のアジア人となってしまった。このような、怪しげな人種を他人は「謎の東南アジア人(ナットウ)」と呼称する。このナットウ君、どうせフイリッピンで何かをするなら大自然の環境に包まれ、現地に根付く生産的なことをと考え、思いつたのが酪農に果樹と野菜栽培の総合農園経営であった。

こう書くと、いかにもフイリッピンの僻地で壮大な農園を営みそうな雰囲気なのだが、実態は人に薦められるままに、僻地ならぬアンへレス市郊外にデンと聳える標高600mのアラヤット山近くの酪農地帯に、3ヘクタールの更地を600万円程で購入。此処らは、パンパンガ大平原穀物生産地帯の端に位置する。約600年前の大噴火によって平原の一部が隆起し出来たのがこのアラヤット山。ちょうど日本の昭和新山か阿蘇山のような山。

元々、サトウキビ畑だったこの土地にブルドーザーとユンボを入れ整地した。1ヘクタールを養魚池、残りの2ヘクタールに豚舎、鶏舎、家鴨小屋、母屋を作り、マンゴーの苗木を植え、農園を開園したのが、1999年の2月だった。それから、1年もたつと農園のバナナも大きくなり、実に南国の農園らしく見え、養魚場のテラピアを食べ、水牛のミルクでコーヒーを飲み、家鴨卵の超大型オムレツ、家鴨と鶏の丸焼きとブタのバーべキューに舌鼓み!。それにトマト、ニガウリ、キューリ等の野菜も豊富に取れ、トウモロコシはブタの飼料にもなり、水田も少々あったので、食料は自給自足生活が出来るようになった。

農園の朝、ブタはブーブー、水牛はモウモウ、家鴨はガウガウ、犬はワンワンと実に騒々しい限りだが、この騒々しさも、これが農園の音楽なんだと納得すると、なにかしら心地よい気すらするから不思議なもの。それに、ここら辺は朝夕靄が発生し涼しく、早朝、アンヘレスの自宅から農園へ到着するとすぐ馬に乗って周辺を駆廻った。

ただ悲しいことに、この我が愛馬、現地産なので蒙古馬のように背が低く、見てくれはまるでロバ。アルバムの写真を見ると、ボクの乗馬姿は西部劇の主人公どころか、せいぜいよくて映画「ラマンチャの男」のサンチョ・パンサみたいにみばえがしない。が、実はこの馬、粗食に耐え、病気知らず、とても頼もしい奴で、今でも、マニラのキアポ付近とかアンヘレスのダンタウンではカレッサ(辻馬車)を曳き、立派に現役で活躍している頑強な馬なので便利で頼もしい、それに値段も1頭が約7,000ペソ、これは安い!。

こうして書くと、全てが上手く回転しているように聞こえるが、ところが大きな問題が発生した!それは、初めの年は仕方がないとしても、2年目からはと期待していた養豚と養魚の生産計画がまるで狂い、毎月の支出に対し収入が大幅に少ない酷い収支計算。なぜ計画通りにことが運ばないかと問題点を究明すると、次々と意外な事が判明した。その原因のほとんどが人災、驚いた事に農業大卒とし雇った責任者も学歴詐称していて、本当は養豚場で雑役をしていただけ。彼が雇った従業員も養豚場での実経験皆無というお粗末さで、種付け交配も餌の配合も、何から何までが見よう見真似と勘に頼っていただけであった。これでは生産計画どころの騒ぎではなく、ボクはショックの余り絶句!頭を抱えてしまった。そこで、急遽従業員を総入換えし、獣医のコンサルタントを雇い、新規2ヵ年計画をたて資金を借り入れ再スタートを切った。

一方、この頃、ひょんなことからフイリッピン空軍曹長ともなった。それは軍事専門誌の取材許可申請の時、お世話になったのが国軍広報部長アギュラ大佐。この大佐とは射撃とかアンティーク収集の趣味も一緒だったので、以来個人的にも親しく付合うようになった。

この大佐とは射撃とかアンティーク収集の趣味も一緒だったので、以来個人的にも親しく付合うようになった。海外の、特に中近東とアジア各地で開催される軍事博覧会や、各国の武器装備類の売り込みデモンストレーション会場で配布されるパンフレット類、スペック等のCD資料を土産代わりに提供し大変感謝された。というのは、金満国家日本と比べると嘘みたいな話だが、フイリッピンは貧乏国なので、政府全般が予算不足。

特に国軍は共産ゲリラとイスラム過激派ゲリラとの戦いに大半の予算を割かれ、新型武器装備購入もままならない。それでも、幹部軍人達は、今、世界ではどんな武器が開発試用されているのか知りたいし、予算の関係で購入はできなくとも、せめて資料だけでも欲しい。だが、悲しいかな予算不足ゆえ駐在武官も、アメリカとかの大国以外には駐在していないのだから、毎月世界中のどこかで開催されている陸海空の防衛博覧会とかでデータ類を収集するのも難しいのが現状。そこへ、ほぼ毎月のように武器装備類の最新軍事データーを無料提供したのでだから、大変な貢献と軍から感謝状を貰い、せめてもの感謝のしるしにとセルッテッサ第3軍管区空軍司令官から第1航空支援団第17空軍広報担当予備役曹長に任命された。これは、海外取材では、フリーランサーよりは軍報道部員の方が便宜を計らってもらえることが多かろうという配慮からだが、実際にその通りなのでこちらも喜んで受けた。

だが、クラーク基地の幹部の中には、それを快く思わない将校もいて、たとえ"予備役"であろうと軍人には変りなく、よって軍規定通りにやってもらうと基礎訓練を受けさせられる羽目になり、クラーク基地の新兵教育センターに入所。毎朝、起床ラッパと共に5時起床、二十歳そこそこの新兵さんたちとオイッチニサンとジョギング、グランドを3週間も駆け回りさせられたのだった。

といっても、本当は、セルッテサ司令官がまあ良しなにと教官に頼んでくれていたので、ボクはマジに駆けている新兵さんの後をトコトコ早足程度で歩いていたのが実態だった、それでも20年振りの軍事教練はきついもので、最後の戦闘演習コースでは折からの雨季。雨に祟られ、連日びしょ濡れになりながら、サコビヤ山中(第二次大戦中、ここでは3万人もの日本兵が亡くなった激戦地)索敵掃討作戦と待ち伏せ訓練組に分かれ、ほぼ2昼夜も徹夜状態ででピナツボ山系のジャングル地帯を彷徨させられた。

これには、もう50歳近くのオッサンの体力では限界のぎりぎりの線。疲労困憊で、暗闇のジャングルでは危うく谷に落下しそうになったり川に嵌ったりし、何度も危ういところを仲間の新兵達に助けられ、どうにか基礎訓練を終了。

新品の迷彩服の胸にラプラプ徽章(魚のラプラプではなく、スペインの探検家マゼランを殺したとされている、セブ島の酋長の名に因んだ戦闘訓練終了徽章)を付けると、すっかり一人前の兵隊気分。意気揚揚と帰宅した。その後、人事管理部への申請書に、次に何の教科を受けたいのかと項があるので、冗談半分に「操縦」と記入したら、驚いたことに飛行訓練を受けさせてくれた。

が、哀しい事にここも予算が少ない。地上での基礎訓練の後、フライトトレーニングのチャンスは少ないのだが、ガソリン代実費持ちの自己負担で単機エンジン航空機コースを終了。

飛行訓練中には農場の上を超低空で旋回。やっと、数回目に従業員がボクだと気付き、大喜びで地上から手を振っていた。ブタ君達もきっと驚いただろう。
ということで、今は、月曜日から金曜日までは農場でブタやマンゴー樹の管理をし、週末になるとクラーク基地やスービック基地で技能維持訓練などの軍事演習に参加し結構楽しんでいる。

この調子で農園の方も順調に行って欲しいと願っている。

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