マイク福田の       Vol.1
アンへレス物語

ルソン島中央部パンパンガ州アンへレス市に居住し、もう8年。

もともとが大の冒険好き。十代でアメリカへ渡り、サンフランシスコ郊外の高校を経て、サンフランシスコ大学に進む。だが、時はベトナム戦争の真っ最中、学業の成績が悪かった僕は2年生の時に落第、奨学金もうち切られてしまった。「どうかしてくれないか」と泣きついた大学のカウンセラーに、「どうせいずれ徴兵されるのだから、今、志願徴兵でアーミーに行けば戦地に行かなくて良い、それに除隊後は国籍も特別奨学金も貰え、良い仕事も斡旋してくれる」とのうまい話に乗せられ、陸軍に志願徴兵。ところが、基礎訓練終了後に配備されたのは、第9師団第3連隊第60歩兵大隊C中隊。これはバリバリの実戦戦闘部隊だった。だから、当然ながら派遣先は希望先の日本と違って、硝煙渦巻く戦闘下のベトナム。それもデルタ地帯の陸軍前線基地ドンタムだった。それからは虫と蛇とベトコンと性病との戦いを生き抜き、無事1年間の戦場勤務終了。陸軍を満期除隊し、大学に戻りホテルレストラン学部を卒業。その後、友人の誘いで日本へ就職した。

就職したのは六本木に本社がある某有名レストラン。2年間ほど現場でアシスタントマネージャーとして研修をさせられてから、新設の海外事業部付次長となる。そして、海外事業部最初の海外進出第1号店は、イランの首都テヘランにあった三越直営店「日本橋」。日本食レストランを引き継いで新装開店した店だった。このレストランは大当たりで半年足らずで初期売上目標達成!。毎日、銀行に分厚い売上袋を運び込み、銀行のイラン人達を驚かす。これは日本から応援に来ていた僕も鼻高々だった。だが、それから数ヶ月も経たぬうち、あのCIAさえ予期しなかったイラン革命が勃発。慌てて銀行から預金等を引き出そうと試みるのだが、外貨がない、とか、責任者がいない、とか、グズグズしている。その内に外国企業関係会社資金は凍結され、引き出せなくなった。

その頃、イスラム革命派からの脅迫等もあり、店は閉店し身の危険を感じた29名の男女日本人従業員と共に、高層マンション内の女子寮に自主軟禁状態で篭った。だが、電気も水道も止められ暗く寒い真冬のマンション、その窓から見下ろすパーレビ大通り。ここでは、連日、ホメイニー支持派デモ隊と軍が衝突騒し軍が発砲し死傷者多数の流血騒ぎ。その死傷者を軍のトラックが満載し、いずことなく運び去る。低空飛来したヘリがデモの民衆を機銃掃射するという大量殺掠。それを窓から目撃していた従業員一同、あまりの惨劇さに驚愕し恐怖に駆られ、一刻も早く帰国したいと切望した。数日後やっとロンドン経由の切符をどうにか手に入れ、全員無事に平和な日本へ帰国した。

しかし、悪いときには悪い事が重なるもの。次の出店候補地であったレバノンでも内戦が悪化した。そんな情勢下、会社としては出店どころかせっかく世界進出を狙い新設された海外事業部も縮小され、開店閉業の有様だった。したがって、その責任者であった私は文字通りの窓際族になりはてた。毎日、六本木の本社ビルの窓からロアビル辺りの雑踏を見下し、溜息をつくばかりで、やることもなく閑を持て余していた。すると、たまたま薦める人があたので、ある雑誌に自分の戦争体験を小説風にまとめ、投稿した。起用されたので渡りに船とばかり、これを機に脱サラをしルポライターになった。

以来、週刊誌や軍事雑誌等の海外ルポライターで海外を飛び歩く仕事は、エキサイテイングで面白かった。が、反面、ライターの収入というは意外に思ったより良くなく、収入はサラリーマン当時の半分にすぎなかった。長期住宅ローンで購入した家の支払もあるので考えた末、ファッションのメッカ「原宿」で、以前から趣味で収集していた各国軍隊の軍服・装備・勲章類をベースに、各国軍余剰放出サープラスグッズを若者相手に販売するミリタリーショップ「ヘッドクォーター」を、趣味と実益を兼ね1981年にオープンした。

折りからのアーミーファションブームとフライトジャケットが大流行。その波に乗った商売は順調に滑り出し、売上も鰻登りに急上昇した。仕入れが間に合わないほどの大盛況であった。以後、雑誌取材と商品仕入れに世界中を忙しく飛び回る仕事を続けた。通販部門も順調に伸び、生活もかなり楽になり、住居も仕事に便利な原宿のマンションに移した。そして、月の半分は海外で過ごし、残り半分は東京に住むという典型的独身貴族生活を満喫、我が世の春を謳歌、結構満足をしていたのだった。

ところが、良いことはそう長く続かないもの。あの「バブル経済崩壊」が原宿にもジワジワと押し寄せてきていた。1994年の中頃には、不況知らずと言われた原宿の店舗も櫛の歯が抜けるように一軒一軒と潰れ、あるいは衣替えし消えていってしまった。それまで、当方にも「坪当たり1千万!、いや!2千万円出す!」と連日のように電話攻勢していた地上げ屋の電話もパッタと嘘のように止み、「しまった1億5千万の値がついたとき手放しておくんだった」と臍を噛む。だが後の祭り。それでも、なお「ウチは特殊商品を扱う店だし、固定客も多いから、よそ様とは違って大丈夫!また、そうであって欲しい」との希望的観測で自分自身を慰め納得させていたが、不安は募ったのだった。しかし、良く考えてみれば不況時だからこそ、やむなく生活必需品を買うが、贅沢品の類、特に生活に全く不必要な趣味の軍装品等は買わなくなるのはあたりまえの話。それまで売れていたのが不思議と思わなければいけないのに、あえて現実から目をそらしていたので、その頃より店の売上げは下降線上にカーブダウンした。

そこで、「このままジリ貧に陥入り潰れるよりは」と店を知人に譲り渡し、同時に土地財産等もついでに処分。将来適当な時期に財産を処分しフィリピンに行って暮らそうとしていた計画を数年早め、同年中に移住する事にした。というのは、その数年前に仕事関係仲間の紹介で知合ったアンへレス市出身の米比混血女性と結婚し、いずれは彼女の故郷アンヘレスに住むからと約束していたからだった。

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